よく、ドラムがいたらこう叩く、とか、オーケストラならこう演奏する、という思考をよくしている。ビートに対して、常に対峙している。
それに対してよく感じる事は、「足るを知る」と言うか、そもそも自分たちは足りない編成で分かってやっているじゃないかという事。しょっちゅう「もうドラム入れたら全部解決するやん」と思う。
それでもドラムを使わないのであれば、なぜ割り切らないのか。もしくは、なぜ3人でやっているのか。
「ここにビートを足した方が引き締まる。」「ここにストリングスのフレーズを加えた方が安定感が出る。」全てわかる。でも、自分たちは3人。あるところにビート感を足すと、また別のところにも必要と感じる。それどこまで足していくの?
そういうふうなアプローチが、何だか自然な流れに逆らっているように感じ、どこかバンドやオーケストラのイミテーションのような物をやっているように感じる。
ではここからは逆に、そららに対して呼応していく。
なら逆に、どう言うスタイルならば自然な形と言えるのだろうか。それに応えるなら、ギター、ピアノ、シンセがそれぞれの範疇で無理のない仕事を行い、ビート感や全体のバランス感、感動感などに対し満足のいく成果を出していれば、自然体だと思う。
ではもしそこに、更に素晴らしい感動感を与えてくれるフレーズが出てきたらどうする?シンセであれば、2本の手で弾けるものにやはり留めるのか、良いものなのであればそれも積極的に取り入れるのか、どちらが自然でどちらが不自然なのだろうか。
因みについでに言っておくと、先に書いた”自然な形”は、現実的な話これまでの制作過程などから考えても不可能に近いとは感じる。
また、音源上ではただシンプルに”カッコよさ”を追求する。ただ直向きに追求する。それは自分たちの編成に対して、果たして不自然な事なのだろうか。
例えばメジャーアーティストのアルバム。編成に忠実であるべきならば、一発どりしか法は無い。昔友人との会話でも、「あのバンドはホントにアルバムのまま!」みたいな会話もそう言えばしていた。
たけど実際は歌にしてもベストテイクを集めるし、SEだって入れるし、メンバー数以上に何トラックも使う。それは単に「カッコイイものにしたい」から。
「カッコイイものにしたい」と言う行動原理が、自分たちの場合だったら16分のビートを足そう、とか言う話になる訳である。この文脈で行けば、自分たちだってカッコよく出来るのであれば何だって、何トラックだって足せばいい。では、実演は?それは極端な話し、と言うかその通りと言うか、実演は2本の手で出来ることだけやっていたとしても、「音源通りに聴かすことが出来れば、それは実演出来ているのと同じ」だ。そりゃそうだろう。
”ドラムが不要”について。
不要というよりかは、もはや入る所がない。全てのバランスが崩れる。
その、音が大きいから、とかそういう事ではなく、”打音”が我々の音楽にはもはや致命的なレベルで不調和になってしまっていると言えば良いか。
例えるならば、僕たちは水彩絵具で色を作ったり、その色で絵を描いているところに、油性の絵の具を持ってこようとしている感覚が分かり易いかもしれない。「油性の絵の具が合わないっていうのなら、ちょっと薄めますさかい」って話ではないのだ。アナログシンセで作ったキックやスネアの音であっても同じ。”打音”にジャンル分けされる類の音は、残念ながら自分たちの体には受け付けない。ってことなのだ。
だからピアノが作るビートを完成に近づけるのには、シンベよりもストリングスやブラスなどの生楽器系のビートフレーズが合うという訳だ。
ならば、ドラムを加えようという話ではなく、良いシンセ奏者がいたら入ってもらおう。ライブの時だけでも良いので入ってもらえば、実演でもより再現度高く演奏する事ができる。
こうも考えたが、それも一筋縄ではいかないだろうという結論になる。
と言うのも、実際にライブで音源に使っている音を出して演奏すればどうなるのか。
自分だけの時でも、音のヌケなどは非常に苦労している。シンセが二人になって演奏し出せば、大変なことになりそうな気がする。飽和したり、ハウったり、聴こえなかったり、他を殺したり。それを2人分もしくは使用パート数分対処するというのはそれこそ現実的ではない。
なので、ドラムは使わない(使いたくても我々はもう使えない)、実演は康成+tomoco.K+あと一人が限界。
となり、実演で同等に聴かせる事が出来るのであれば、音源で好きなだけカッコよさを追求すれば良い。という事になる。
その実演と、理想値を追求した音源とのギャップについて。
逆に生まれてはいけないギャップと言うのは、聴き手を裏切ってしまうもの。
例えばライブへ行ってみたら康成がエレキギターを持っている、とか、路上での弾き語りが気に入ってライブへ行ってみたらフルバンドでやってた、とか。
そうで無ければ、寧ろ盛らない方がおかしい様にも思える。それこそアルバムの”ジャケット”。メジャーあーテイストのジャケ写にだって、ギャップは生まれる。みんなベストな、作りこんだ写真を撮るわけだが、いざライブになると絶対にご本人が登場するわけである。
背が低いかもしれないし、スタイルが思っていたよりも良くないかもしれない。
生歌聴いたら下手だった、とかプロのライブでだって言われる。
つまりやはり音源では、みんな理想値をとことん追求するのだろう。だってそう、自分たちの作品なのだから。
その理想値は、全く同じ編成のバンドがあったとしても、それらの美学や価値観によって変わってくる。3人編成のバンドがシビアに手の数で足りる事だけで完結させるという点に拘るのであれば、理想値はそこだ。同じ3人編成でも、究極的なカッコよさ、素晴らしさまでブラッシュアップさせていくのだと考えているバンドは、同じところが理想値にはなり得ない。だが、どちらも正解なのだ。
そして先にも触れた事だが、もし前者のバンドが何か遊んでいる時にいいフレーズがふと出てきた場合、それをあくまでもコンセプトにこだわり使わないのか、別のものを捨てるといった選択をするのか。素直にそれも取り入れて行って実演では何か工夫するのか。
どちらが果たして制作するものとして自然なのだろうか。どちらが人として、音楽家として豊かなのだろうか。自分たちの場合、つまり後者なわけである。
最後に、自分たちにとってのビート”感”について。ビートではなく、あくまでもビート感。
ドラムがいたら、と言うから語弊があったのだが、「この世にドラムが無かったら。自分たちも世界中の人もみんな、ドラムを聴いた事がなかったら」という思考実験がイイかもしれない。
それでも、ドラムをいう楽器を知らなくとも、音楽を聴けば身体が動き出すというのは太古の昔の人間もそうだった。もし自分たちがドラムを知らなかったとしても、自分たちの音楽を聴いた時にはおそらく大なり小なりのビート感を身体が求めるものだろう。
その欲しがってくるポイントに、どこまで忠実に呼応出来るのか。その作業なのだ。
ドラマーがいたらどう叩くだろう、フルオーケストラならどう演奏するだろう、と言った思考を字面のまま入れるから、足りなさが際立つ考えになってしまっていた。結局それらの模倣をやっている様な感覚。
実際はそう言う例えの言い方が手っ取り早いだけで、「ドラムの代わりをやる」んじゃないんだ。
間違ってはいけない。ビート感を加えたいだけなんだ。加えた方が、かっこよくなるから。
そう言うシンプルな話であり、それを実演では「弾きたいパート弾きますわ」で良いんだ。そこに音源と同等の迫力、感動感、その曲たらしめている音色など。そこだけ見極めておけば。
コメント