火曜日のプリプロ作成の後、知人と夕食を食べるの巻

5月26日火曜日のプリプロ制作の日はtomoco.Kは私用の為不在だったのだが、たまたまこの日康成が共通の知人から食事に誘われており、僕も夜は一緒に外出した。

次の日は朝はかなり早かったし考え事もしたかったのだが、家にいても何も変わらない。外に出れば些細な事でも、新しく得られる経験や変化がある。その方が圧倒的に価値があると思っているので、2人で京都は東九条ど真ん中の鉄板焼き屋さんへ向かった。


そこで久々に会う顔見知りの方々や、所見の方といろいろな話をしていた(と言うか大体自分はいつも聞いていることの方が多い)のだが、一人大学生の若い人がいた。

その人はギターを弾き歌も歌う(どちらかと言えば、歌う方が好きらしいが)のだが、もっと上手くなりたい、と。で、街のスクールなどは何だか教科書に沿った教え方をされそうで、それ以外にもなんだか気が向かなくて、康成に教わりたいと。そういう話をしている。(街のスクールが嫌なのは多分自分も同じ理由を共感できると思う、何か分かる。)

上手くなりたいといっても具体的にどういうイメージなのか。本人もハッキリと言葉にするのは難しそうだったが、突き抜けたい。今自分が真剣に向き合えているものをもっと解かりたい。そういう話だった。


そんな話を聞いていて、とても純粋だなと思った。忘れないで欲しいなと思った。
人にもよるだろうが歳を重ねると、バイトだけでいいのだろうか、周りの友達は結婚していく、将来親がもっと歳をとっていった時自分はサポート出来るだろうか、みたいな考えは出てきて当然。
他にも、そもそも自分の本当にやりたい事ってこれなのか、自分にとっての幸せってなんなんだろう、みたいな事も考え出すかもしれない。

某大学の音楽講師の方で、こうした考えが歳とともに出てくる事は寧ろ自然と言っていた人もいる。根拠のない自信も、力を持たなくなってくる。

けれど、若かろうが歳をとろうが同じ人間なので、人間としての本来発する欲求と言うのは先に書いた、「突き詰めたい」「理解したい」と言った感情の方が自然だと思う。
そう言った感情を、社会的な圧力によって見えなくなるくらいまで小さく圧縮させられているように思う。


以前、小さかった頃や学生の頃はどうしてあんなにシンプルに楽しんでいたんだろうと考えたことがあった。
答えは、”守られていたから”。学校へ行って、帰れる所があって、そこには健康的な親がいてご飯があって、寝床があって、好きな時に起きて。


歳をとっていくにつれて、”こうするべき”、”こうなるべき”、”こうしなければならない”と言ったものがすごく沢山増えてくるように感じる。それらは自分を苦しめるだ場合が多く、”こうしたい”、”こうなりたい”と言ったものはその中にはない。
なんなら”こうなりたい”といった思いも、直ぐさま”それなら、こうしなければならない”と言う形に変換されていく。


残念ならが人によっては根気よく訓練しないといけないのかもしれないけれど、改めて若い音楽人の話すシンプルな思いに、はっとさせられた。

小さなころ格闘ゲームで、「○○の使い手」みたいなのに憧れた。このキャラクターを使わせればめちゃくちゃ上手い!と言うヤツ。また、「極める」という響きも好き。


”同調”とは、周りと同じようになるように作用する力のことで、周りと同じ=普通だ。
その同調圧力を上手く使うならもっと特殊な人たちの中に身を置くのは有効なのかもしれない。

いわゆる”普通”って楽だね。どこかしらの会社で働いて、自分で考えると言っても上からはプロジェクトが降りてきて、多い少ないあっても給料が貰えて、それにより将来の計画も立てやすいし、そのうち結婚したり子供が出来れば強力な大義名分を得て、家庭を守る・妻子を守る、と言う完璧な盾を持って更にその道を進む。
その道中には同じ仲間がいくらでもいる。

ただそこまでみんなと同じ道を進みながらも、ふと外れる人も中にはいる。
そんな人たちにやはり共通していると思うことは、「しなければならない」よりも「したい」だったんだろうねきっと。


話は戻るが、その若い音楽人が言った純粋に「突き詰めたい」「解かりたい」と言う気持ちを自分も忘れずにいたい。
そのまま若いうちに日の目を浴びた人。そんな若い気持ちのまま歳をとっていく事が出来た人。歳をとって不安に叩きのめされながらも険しい方の道を選んでいく人。




全部最終的には結果論にしか帰結しないのだけれど、とりあえず、本来人の発する純粋な感情ってってのはこんなヤツだろ?ってのを気付かされたと言う話。

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